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2012年5月26日 (土)

平清盛 第20回「前夜の決断」

放送20回目にして初めて主人公がかっこよかったという…!
黒い鎧で白馬に乗って腕組みって、めっちゃかっこいいですけど!!

後白河のいる髙(←字幕ではわざわざ旧字になってた)松邸ってどこかな?と思い、『京都時代MAP』で調べてみた。どうやら、源高明→明子の高松殿と同所で、すぐ隣が信西のうちだった(^^)

家成の娘がいて、洛外でっていうともしかして鹿ケ谷だったりするのかな?え?鹿ケ谷の陰謀事件って成親(=家成の子ですね)の山荘だったよね??それで成親の妹と重盛が結婚していた(→つまりあの経子と重盛はこの先結婚する)ので、鹿ケ谷以降、平家内での重盛の立場が悪くなったとかそんなことを思い出した。

2012年5月21日 (月)

金環日食

いつもこういった「天体ショー」はついつい忘れて見逃してしまったり、流星群なんかだと夜に長い間、ベランダ(だと見える方向も限られるし)に出ているのもしんどかったりで、まともに見たことはほぼ無いのですが、今回、せっかく日食グラスを貰ったので、見てみることに。

朝6:40くらいに起きたら、けっこう厚い雲が。あと1時間で晴れるだろうか?今日の天気予報によると9時あたりから晴れなんだが・・・。くそ~、鈴鹿なんか好きで住んでるわけじゃないのに、何でここは曇ってんだ!?待っても待っても晴れず、外を見てもどこに太陽があるのかさえ分からないくらいだったけど、7:15頃からだんだん外が薄暗くなるのは分かりました。

せめてTVで中継でも見ようと(^^;このテレビ局の中にいる人達も、実物の日食は見れてないんだ、と自分で自分を慰める。金環の瞬間はTVで見ておいて、数分後に窓の外を見たら、なんと雲の切れ間から少し日光が!!いつもより20分遅く登校する長男と次男を呼んで、日食グラスを交替で使って見ました。太陽全体を見ることはできなかったけど、リングの一部の線になった太陽が見れた。

日食グラスは回し回しだったので、ときどきグラス無しで太陽を見てしまいましたが・・・まぁ、普段でも太陽を見ちゃってまぶしい!ってことよくあるから大丈夫かな(←絶対日食グラス以外で見ないでって言われても、ついつい見ちゃいますよね。)はい、裸眼で見ても、いや裸眼で見た方がすごく輝いて見えて素敵でした(^^)あと、三男も見れたようです。四男は近寄って来なかったし、日食グラスで太陽のを探すのが難しいんじゃないかと思い、それよりは記憶に残るであろう人だけで見ようかなと。

名古屋で935年ぶりとか言われると、ほんともう感激ですよ。TVで、源平合戦の真っ最中に日食が起こって、平家方はもともと日食が起こるのを知ってたけど源氏方は知らなかったから動揺してしまい源氏は負けたとか言ってたけど本当かな・・・?

2012年5月19日 (土)

平清盛 「鳥羽院の遺言」

叔母に興味ありげな基盛に、必要以上に反応してしまった・・・。

為義の表情が今回もまた良いですねheart01 あ、ハートマークは相応しくないかな(^^;敵対する者は殺して解決、という武士のスタンスは大嫌いなんで、義朝がやり過ぎというよりは武士とはそんなものなんですけど、それを咎める頼朝ちゃんが殴られるのはかわいそうな気が。志があるから弟を殺すって、真似しちゃうじゃないですか!

崇徳院が鳥羽院の子じゃないと公然と言ってますけど、思い返せば璋子がそれらしきことを言った以外には証拠はないんですよね・・・?白河・鳥羽院政の時期の知識は、すっぽり抜け落ちてしまった私なんですが、繊細な鳥羽院というのは初めてだったので、すっかりはまってしまいました。鳥羽ちゃんもいなくなって、為義も頼長もあと少しでいなくなってしまうし寂しいなぁ。また良い新キャラ出るかな?

あ、そうそう、一番美しいまろは頼長さん(忠実も、頼長が贔屓ならもっと助言してあげたらよかったのに、今更「お前はやりすぎた」って)なんですが、予告に出てたあの、出来過ぎたおでぶ系白塗りまろは誰かと思ったら信頼だったんですね。愚鈍そうな雰囲気が◎でした。よくこんな似合う役者さん見つけてきたな~誰~?と思ったらドランクドラゴンだったΣ(゚□゚*)あぁ、たしかにこんな顔してるわ。これを一目見て気に入ったって、もはやギャグとしか思えないwww

ところで。天皇というのは、平安時代だけかも知れませんが、若くして亡くなることが多くないですか?それまで普通に東宮として暮らしていたのに、オジサンになってから天皇になったらガタガタっと健康を崩したり。でも、さっさと辞めてしまった(辞めさせられた)場合には長生きしていたり。ぎりぎりまで頑張っちゃった天皇は譲位後短い期間で亡くなってしまう。そんな傾向があるように思います。天皇という役目はけっこうしんどかったんじゃないかな?

2012年5月15日 (火)

遠足また中止

保育所のサーキット遠足が2年連続で流れました。去年11月の次男のときのも加えると3回連続。なんかもう二度と行けない気がしてきた・・・。三男は赤ちゃんのときにしか行ったことがないので行かせてあげたかったんだけどなぁ。(遠足で行くとパスポートが950円、自分で行くと……。)まっ、ディズニーに行くことができたら、鈴鹿サーキットくらい行けなくても良いかと思うんですけど。

それで今日は午前中だけ「保育参加」ということになったんですけど、午前中でおしまいだったら先生だいぶ楽ですよねー・・・。うん~保育参加、実はかったるかったです(^^;クラスごとに前に出て、三男が歌ってる姿は見たけど彼の声が聞こえるわけでもなく。他のお母さん方とキャッキャするわけでもなく。仕事はあるし。

とにかく。弁当作り損でした。おかずのハンバーグ(日曜の夕飯から)、鶏つくね(月曜の夕飯から)、かぼちゃ(月曜の夕飯から)、あとはプチトマトにピーマンのおひたし、おにぎりという超手抜きでしたが。小学校の遠足も雨で延期になったから2回も弁当作らされたし。弁当作り大嫌い~!

22時から大河が保元の乱に突入直前ということで特集がやっていて、眠いの吹っ飛んで仕事がはかどりました~!ありがとう(^^)楽しみだけどいろんなキャラが死んじゃうのは嫌だなぁ~。

2012年5月12日 (土)

平清盛 「誕生、後白河帝」

「帝のご容体、芳しからず」をいやに連呼するな~と思ったら、最後の「世の情勢、芳しからず」につながっていたんですね(゚o゚)

頼長が「聖徳太子に倣って云々」と言っていましたが、この時代、聖徳太子の評価、というか信仰に近いものが非常に高まっていたそうですよ。そんだけ。

ままままま松田聖子が着物で歌って踊っとるーーー!!( ̄Д ̄;;
10年くらい前?の「源氏物語1000年の恋」だったか、そういうタイトルの映画でまさに松田聖子さんが歌って踊るシーンがあってげんなりしたのですが・・・。

そして、雅仁様、眉間にしわ寄せた表情がすごく色っぽいです(*^.^*) 清盛と話してた時の雅仁が何で泣いたのかよくわかりませんが(←人の心情をくみ取れないアホです)

2012年5月 7日 (月)

平清盛 第17回「平氏の棟梁」

経盛・・・、糸子さんのダンナさん!?私のイメージだと、平氏は「武士の世」ではなく、武士ではあるが朝廷内での高い地位に就いたというか、まぁ結果的にそうであっただけで、ドラマ内で「目指す」と言わせる分には別にいいのかなとも思いますけど。って、清盛の髪型がまともになっとるー!!

常盤がおったから?常盤がおったから?常盤がおったからだと・・・!?じゃあ最初から由良さんと結婚しなきゃいいのに…。由良←上西門院のラインのほうが強いはず・・・ん?常盤は上西門院に仕えてるんじゃないんだ??由良さんは言い方がキツイけど、この人と上西門院とのつながりがなければ頼朝だってどうなってたか分からないし!

義賢が出てこないな~、存在抹殺?と、ちょうど思ってたところでしたが、とうとう登場ですね!義朝と為義がで、東国に行って、義朝の息子にやられるのかな?(^^;

うぉぉぉ~~~白塗りまろがいっぱいおる!!!しかも忠通さんとうとう「おじゃる」って言った・・・。歌会のシーンは、まじめな場面と見せかけて笑いを取る所だったんじゃないかとさえ思う。あの光景に唖然、そして清盛の歌もどきにこっちのほうが少し恥ずかしくなっちまった。一人ぷぷぷっと吹き出してる雅仁good(*´ー`)b こういうのどっかで見たことあると思ったら「ちびまる子ちゃん」の野口さんですな(笑)初回放送のとき、家成と成親を間違えてたのですが、親子だったんですね・・・。

2012年4月30日 (月)

清盛電車

1


2

阪神電車の駅にて。数十分待ってやっと来ましたヽ(^▽^)ノ  もっと違う図柄もあったけど、2枚撮るので精一杯…。

20120430104555

こんな広告も貼ってありました。反射してうまく写ってないですけど、かっこよすぎる清盛さんのイラスト。システムがよく分からなかったけど、電車乗り放題+歴史館等の無料券付きっぽかった。写真はかなりでかいですが、3枚ともクリックで拡大できます。

2012年4月29日 (日)

京都国立博物館 「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」

今朝の仮面ライダーフォーゼとプリキュア、いずれも修学旅行先の京都で敵に襲撃されるって内容ですた(´∀`)10時半に家を出て、14時。4時間かかった(x_x;) 京都駅着いて即トイレ(笑)そして眼鏡忘れてしまった(*_*)見えなくもないけど…。

Kyouhaku
博物館入口で夫と長男と待ち合わせ。小学生料金400円、しっかり見とけよ~~。
どきどきで中に入ると、最初は奈良時代から。『御堂関白記』が千年前で凄いなと思ったけど、それより前のがこんなにきれいに残ってるって不思議。高子の自筆サインとか、本人がここにいないのが不思議なくらい。
次の次のお部屋で『御堂関白記』自筆本がずらりと・・・!意外ときれいに書いているところと、ぐにゃんぐにゃんのところと(笑)墨がけっこう薄いのは長い年月が経ったからだろうか、道長さんが墨を擦るのが面倒だったからだろうか?他の日記と比べて「あ、この文読める」っていう箇所がやや少なかったです。家実の『猪熊関白日記』とか、すごい可愛らしい丁寧な字だったよ。猪とか熊とか、いかつい名前(※邸宅の名前です)なのに。
そう、で、具注歴(365日の占い的なもの)に記した日記とか言われてもいまいち「具注歴」の具体像が思い浮かべられなかったけど、よく分かりました!しかしあのノートの罫線みたいなのはどうやって引いたんだろう?定規に沿って、物凄く細い筆を使ったんだろうか?絵画の展示もいくつもあったのですが、思った以上に線が細くて、これよく筆で描けるな~!ってのばかりだったので、筆でもできるかも。もしくは、版画やスタンプのようなものでぽんっと押すと罫線の出来上がり??

『御堂』の敦成親王誕生の記事、しばらく見てました。「平安男子産給」ん?「平安産男子給」が正しい語順では?でも本当に、一発目で男が産まれたんだから凄く興奮してたんだろうな。私も1人目は男の子希望でしたから心の中でガッツポーズでしたけどね。それから4人も続きましたけどね・・・。何か線が引っ張ってあって、これなんだろう?と思ったら、続きはコチラみたいな線だったんですね。あ、こういうの授業のノートに書くことある!って1000年前の人なのにすごく近く感じたり、この日記が1000年前、敦成が産まれたその日に存在してた、もしかしたら敦成を抱いたその手で書いたかも知れないんですよね。ただもう、それが自分の目の前にあるってのが驚きで。

そこから時代が院政期に移って、今大河で出てる忠実・忠通関連もけっこう出てたのですが少し気持ちが落ち着いたかなと思ったところへ後鳥羽がドン、ドン、ドン!と来まして。もう、頬ずり、いやいや食べちゃいたいくらいでした(*´ェ`*)

そんでまた落ち着いたかな~と思ったところへ、まさかのまさかの「後朱雀天皇宸筆」!!えぇ!この人、自筆が残ってたの!!!「ふ(不)」が、すごく綺麗!全体的にはめちゃくちゃ上手い字でもないんだけど、この「ふ」みたいに、惹かれる字もあったりして、しばらく見てたけど吸い込まれそうでした。

室町~昭和の辺りはだいぶ速く回ったと思います。14時半に入って、出る頃にはもう17時だったので、2時間半立ちっぱなしで疲れた。でも江戸時代の小さい人形の中に次男そっくりのがいて、肋骨が痛くなりました(゚ー゚*)←目がくりっとしてて、たしかこんな顔して笑ってるやつ。図録で探したら、この人形は載ってませんでした。残念、非常に残念・・・。この小さい、というか中には1cmくらいの細かい、よくこんな小さいの朽ちずに残ったなっていうくらい小さい人形(職人の自己満足の世界だな)がとてもたくさんあって、図録にはその4分の1ほどしか載ってなかったかな?江戸時代の雛人形が凄いキツネ顔してたけど、これが江戸時代の美男美女なんだろうか・・・。目細すぎ、釣り上がりすぎ!長男は読めない漢字ばっかりの日記等のコーナーはつまらなかった(オナラしてたよ…。臭いよ。)と思うのですが、絵や工芸品のコーナーはけっこう面白そうに見てました。

この人形とか、刀とか、茶杓とか、墨で書かれた日記や絵画でも、完全な2Dの写真で見るのと全然違ってて、4時間かけて行った甲斐がありました。そうそう、御堂関白記のデザインのクリアファイルも2つ買いましたよ~。表面が和紙になっていて、汚れとか付きやすそうで、濡れたりしたらボロボロっと削れちゃうのかな?とか心配なので使えそうもありませんが・・・。図録には、今回はまだ展示されていなかった寛仁2年のものが載ってたけど、6月のもので、てっきり威子立后の記事かと思ったら違っていました。うん、図録では本当に一部だけを切り取って載せてある感じで、巻物としてつながっている感じがあまり分からないし、紙の質感とか、工芸品の立体感とか、生で見れて良かったです。

2012年4月28日 (土)

平清盛 「さらば父上」

ありゃりゃ?忠盛と得子さんって仲が良かったっけ?と思ったら、家成からの超説明的台詞が(笑)

「平家物語」では忠盛はさっさといなくなってしまうので、長生きしていない印象が強かったのですが、ここまで何とか持ち堪えましたね。うん、キャラ的には物静かだけど心の中では燃えるものがある、というのは私のイメージと同じでした。まぁ、武士の世を作る云々はどうだろ?(^^;と思うのですが。

もーやだ、義朝、信じられない!!由良さんが気を利かせたのにも気が付かず、よりによって他の女に「自分の気持ち分かってくれた」とかで吸い寄せられるか。あほ!あほ!あほ!!せめて由良さん死んでからにしろと思ったけど、今若の生年を考えるとそろそろくっ付いとかないといけないのか・・・。しかし由良さん通いで女房やってるんですね。義朝が養われている・・・?そうだとしたらほんと最低だな浮気夫。

ところで今日から私以外の5人が夫実家に行ったのですが、私も仕事をできるだけやっておいて、明日、京都国立博物館に行って来ようと思います。殿舎じゃないや電車で3時間か~。PSP持ってこ。

2012年4月18日 (水)

『左経記』長元9年4月19日

4月17日は、徳川家康も命日なんですね・・・。彼がナスを大好きだったことと「よ・い・なす」で、「なすの日」なんだそーな。

去年の今日、『左経記』の4月17日をやって、そのまま続けようと思っていたんけど仕事量が多くなったため頓挫してしまい、もう1年が経ちました。たぶん今回も同じことになると思いますが、ちびちびやっていきますよ・・・。

<原文>
天晴、内大臣、藤大納言
頼宗、中宮大夫能信、権大納言長家、新大納言師房、民部卿道方、右衛門督資平、権中納言定頼、右大弁経頼等参会関白御直廬疑花舎、被定雑事、

一、中宮可出御事
人々被申云、先帝御葬送以前、択吉日有御出宜歟、

一、先帝可奉遷他所哉否事
彼此被申云、自禁中被行発葬之礼頗可有事憚、奉移他所之後、自尒備葬礼可有御葬送歟、但無日次者非此限矣、

一、可奉遷之所事
人々被申云、一条院宜歟、但破損殊以甚云々、若然者無便歟、先令見彼院損否之後可被左右歟、即仰式部大輔資業、美作守定経
件朝臣別当也、朝臣等遣見彼院、此間相府命云、一条院若無便者法成寺如何、或云、無遷座寺家之例、無便歟、或云、先帝時々幸臨、為叙位任官之地也、専不可准他寺、奉遷有何憚乎、又被命云、自清涼殿以吉方可定御葬所歟、将自遷坐之所可取吉方歟、其事一定之後可定奉遷之所歟、右衛門督申云、応和四年中宮安子崩於主殿寮之後、奉遷東院、而道光偏自東院以吉方為御葬所、其後保憲遷坐所及御葬所等、自主殿寮可取吉方之由奉勘文云々、即披覧彼年邑上御記、道光有不覚行之文、然者問陰陽師之後可定其所云々、頃之資業朝臣等帰参申云、北対頗雖宜、東西北又廂等不全、可無便遷御者、又此次被定関白詔、并賀茂祭停止、斎宮帰京、斎院他所等、又召大外記頼隆真人、被仰此間雑事可勘申之由、

<書き下し>
天晴る、内大臣、藤大納言頼宗、中宮大夫能信、権大納言長家、新大納言師房、民部卿道方、右衛門督資平、権中納言定頼、右大弁経頼ら関白御直廬疑花舎に参会し雑事を定めらる事

一、中宮出御すべき事
人々申されて云はく、先帝御葬送の以前に、吉日を択びて御出有るが宜しきか

一、先帝他所に奉遷すべきか否かの事
彼れ此れ申されて云はく、禁中より発葬の礼を行はるるは頗る事憚り有るべし、他所に遷し奉るの後尒より葬礼に備え御葬送有るべきか、但し日次無くば此の限りに非ず、

一、奉遷すべきの所の事
人々申されて云はく、一条院宜しきか、但し破損殊に以て甚だしと云々、若し然らば便無きか、先づ彼の院の損否を見しむるの後、左右せらるべきか、即ち式部大輔資業、美作守定経(件の朝臣別当なり)に仰せて、朝臣等を遣はして彼の院を見しむ。此の間相府命じて云はく、一条院若し便無くば法成寺如何。或るいは云はく、寺家に遷座の例無し、便無きか。或いは云はく、先帝時々幸臨し、叙位任官を為すの地なり、専ら他寺に准ずべからず、奉遷有るも何ぞ憚らんや。又命ぜられて云はく、清涼殿より吉方を以て御葬所を定むべきか、将に遷坐の所より吉方を取らんとすべきか、其の事一定の後に奉遷の所を定むべきか。右衛門督申して云はく、応和四年中宮(安子)主殿寮に於いて崩ずるの後、東院に奉遷す。而して道光偏に東院より吉方を以て御葬所と為す。其の後保憲遷坐所及び御葬所等、主殿寮より吉方を取るべきの由勘文を奉ずと云々。即ち彼の年の邑上御記を披覧するに、道光不覚にして之を行ふの文有り。然れば陰陽師に問ふの後其の所を定むべし云々。頃之して資業朝臣等帰参し申して云はく、北対頗る宜しと雖も、東西北又廂等全からず、遷御するに便無かるべしてへり。又此れに次いで関白詔并に賀茂祭停止、斎宮帰京、斎院他所等を定めらる。又大外記頼隆真人を召して、此の間の雑事勘申すべきの由仰せらる。

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「奉遷」はそのまま「ホウセン」と読むか「うつしたてまつる」と読むか迷った結果、いちいち「遷し奉る」と入力するのが面倒だったので「奉遷」のままです。何度も書きますけど、これは私が自分の力だけで書き下したものなので、間違っている可能性は十分にあります。学生さんとか、そのまま書き写すのは危険ですのでやめましょう!私なんかがやってるくらいですから、自力で読んでみて下さい。

「若し然らば便無きか」と「然れば陰陽師に問ふの後」と、「然者」の読み方をちょっと変えてみました。古典文法では、未然形+「ば」は仮定条件(もし~ならば)、已然形+「ば」は確定条件(~すると、~するので)と意味合いが違っているので、「若(もし)」がある前者は仮定で、後者は前の内容を受けて「そういうことなので、そうすると」と訳すほうが良いかなと思って已然形「然れ」にしてみたのですが、まぁ「そうであれば」でも良いですかね。どっちでもいいですね、普通は「然らば」でしょうね(^^;

<現代語訳>
晴れ。内大臣藤原教通、大納言藤原頼宗、中宮大夫藤原能信、権大納言藤原長家、新大納言源師房、民部卿源道方、右衛門督藤原資平、権中納言藤原定頼、右大弁源経頼らが関白藤原頼通の疑花舎にある直廬に参会し雑事を定めた事について

一、中宮(威子)が宮中をお出になられるべき事について
人々が言った。先帝(後一条)の葬送よりも前に、吉日を選んで宮中を出られるのがよいのではないか

一、先帝を他所にお移し申し上げるべきか否かについて
あれこれ申して言うには、、宮中から発葬の礼(出棺)を行うのは非常に差し障りがあるだろう。他所にお移し申し上げた後で、そこから(?)葬礼の準備をして葬送をするのがよいのではないか、ただし日数(良い日取り?)が無ければこの限りではない。

一、お移し申し上げる場所について
人々がおっしゃるには、「一条院がよいのでは。ただし破損の状態が非常にひどい。」とのこと。もしそうであれば都合が悪いのではないか、まず一条院の状態を見させた後で決めるのがよいだろう。関白はすぐに式部大輔藤原資業と、美作守定経(この人が別当である)におっしゃって、彼らを遣わして一条院を見分させた。この間に関白が命じて言うには、「一条院がもし都合が悪かったら、法成寺はどうだろう。」ある人が言うには、「寺に遷座したという先例は無いので、都合が悪いのではないでしょうか。」ある人が言うには、「先帝は時々法成寺へ行幸なさって、叙位任官を行ったこともある場所ですから、ただ単純に他の寺と同じに考えてはいけないでしょう。お移し申し上げてもどうして差し障りがありましょうか(=差し障りありませんよ)。」また、関白が命じられて言うには、「清涼殿から見て吉方になる方角で葬所を定めるのがよいか、遷座しようとしている場所から吉方を取るのがよいか、その事が確定した後にお移し申し上げる場所を定めるのがよいのではないか。」右衛門督(資平)が申し上げたのは、「応和四年に中宮安子が主殿寮で崩御なさった後、東院にお移し申し上げました。そして、道光はただ東院から見た吉方を葬所としたのですが、後に賀茂保憲(陰陽師)が遷座の場所や葬所等は、主殿寮からの吉方を取るべきとの勘文(意見書)を差し出しました。」とのこと。すぐにその年の『村上天皇御記』を開いて見ると、道光は不覚にもそのように(=保憲の言ったとおり)行ったという文があり、とすると、陰陽師に尋ねた後に葬所を決めるのがよいだろうということになった。しばらくして資業らが帰って来て申し上げるには、「北対はとても良い状態ではあるのですが、東(東北?)対や西北対、また廂なども完全な状態ではありません。遷御するには都合が悪いでしょう」ということだ。また、これに続いて関白は詔ならびに賀茂祭の停止、斎宮(嫥子女王)の帰京、斎院(馨子内親王)が他所へ移ることなどを定められた。また、大外記清原頼隆を召して、これまで話してきた雑事について勘申(先例や吉兆、日次などを調べて申し上げる)しなさいとの由をおっしゃられた。

↓↓↓
「尒」をどう訳して良いものか・・・。「なんじ」で変換できたので、「爾」の異体字(「尓」と同じ)だと思うんですけど、とりあえず代名詞として訳せばいいのかなぁ?

重臣達の会議のように見えて、実はその多くが親戚のおじさんという(笑) 師房は頼通の養子(後一条と同年生まれ。祖父は村上天皇で、村上天皇の曾孫の後一条とは遠い親戚でもある)ですし、経頼は母親のいとこだし、摂関政治って家族経営なんだな~と思いますね。

資業と資平は似た名前ですが、兄弟ではありません。資業は藤原有国の子で文章博士、資平は藤原実資の養子、実父は藤原懐平。あ、そういえば右大臣この話し合いに出てませんね。定経が「別当」というのは、たぶん後一条(=先帝)の後院の別当ではないかと・・・。

後一条天皇の遺体は土御門第へ移され、という事実は知っていても、その前に一条院や法成寺が候補に挙がっていて(しかも土御門第はこの時点で出てきていないし)、面白いなと思ったのが一年前。書き起こすまで長いことかかりました。法成寺の「成」は、私の推測でしかありませんが、敦成の「成」じゃないかなぁ。ただのお寺じゃないぞと、後一条にとっては。
一条院は大内裏を出てすぐそこなので、「じゃあ今から見て来ますわ~」というのが可能だったんですね。威子が入内した当初住んだ西北対もボロボロになっていたようで・・・。もし後一条の遺体を一条院へ移していたら、威子もこの西北対に来てたんだろうか??

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