4月17日は、徳川家康も命日なんですね・・・。彼がナスを大好きだったことと「よ・い・なす」で、「なすの日」なんだそーな。
去年の今日、『左経記』の4月17日をやって、そのまま続けようと思っていたんけど仕事量が多くなったため頓挫してしまい、もう1年が経ちました。たぶん今回も同じことになると思いますが、ちびちびやっていきますよ・・・。
<原文>
天晴、内大臣、藤大納言頼宗、中宮大夫能信、権大納言長家、新大納言師房、民部卿道方、右衛門督資平、権中納言定頼、右大弁経頼等参会関白御直廬疑花舎、被定雑事、
一、中宮可出御事
人々被申云、先帝御葬送以前、択吉日有御出宜歟、
一、先帝可奉遷他所哉否事
彼此被申云、自禁中被行発葬之礼頗可有事憚、奉移他所之後、自尒備葬礼可有御葬送歟、但無日次者非此限矣、
一、可奉遷之所事
人々被申云、一条院宜歟、但破損殊以甚云々、若然者無便歟、先令見彼院損否之後可被左右歟、即仰式部大輔資業、美作守定経件朝臣別当也、朝臣等遣見彼院、此間相府命云、一条院若無便者法成寺如何、或云、無遷座寺家之例、無便歟、或云、先帝時々幸臨、為叙位任官之地也、専不可准他寺、奉遷有何憚乎、又被命云、自清涼殿以吉方可定御葬所歟、将自遷坐之所可取吉方歟、其事一定之後可定奉遷之所歟、右衛門督申云、応和四年中宮安子崩於主殿寮之後、奉遷東院、而道光偏自東院以吉方為御葬所、其後保憲遷坐所及御葬所等、自主殿寮可取吉方之由奉勘文云々、即披覧彼年邑上御記、道光有不覚行之文、然者問陰陽師之後可定其所云々、頃之資業朝臣等帰参申云、北対頗雖宜、東西北又廂等不全、可無便遷御者、又此次被定関白詔、并賀茂祭停止、斎宮帰京、斎院他所等、又召大外記頼隆真人、被仰此間雑事可勘申之由、
<書き下し>
天晴る、内大臣、藤大納言頼宗、中宮大夫能信、権大納言長家、新大納言師房、民部卿道方、右衛門督資平、権中納言定頼、右大弁経頼ら関白御直廬疑花舎に参会し雑事を定めらる事
一、中宮出御すべき事
人々申されて云はく、先帝御葬送の以前に、吉日を択びて御出有るが宜しきか
一、先帝他所に奉遷すべきか否かの事
彼れ此れ申されて云はく、禁中より発葬の礼を行はるるは頗る事憚り有るべし、他所に遷し奉るの後尒より葬礼に備え御葬送有るべきか、但し日次無くば此の限りに非ず、
一、奉遷すべきの所の事
人々申されて云はく、一条院宜しきか、但し破損殊に以て甚だしと云々、若し然らば便無きか、先づ彼の院の損否を見しむるの後、左右せらるべきか、即ち式部大輔資業、美作守定経(件の朝臣別当なり)に仰せて、朝臣等を遣はして彼の院を見しむ。此の間相府命じて云はく、一条院若し便無くば法成寺如何。或るいは云はく、寺家に遷座の例無し、便無きか。或いは云はく、先帝時々幸臨し、叙位任官を為すの地なり、専ら他寺に准ずべからず、奉遷有るも何ぞ憚らんや。又命ぜられて云はく、清涼殿より吉方を以て御葬所を定むべきか、将に遷坐の所より吉方を取らんとすべきか、其の事一定の後に奉遷の所を定むべきか。右衛門督申して云はく、応和四年中宮(安子)主殿寮に於いて崩ずるの後、東院に奉遷す。而して道光偏に東院より吉方を以て御葬所と為す。其の後保憲遷坐所及び御葬所等、主殿寮より吉方を取るべきの由勘文を奉ずと云々。即ち彼の年の邑上御記を披覧するに、道光不覚にして之を行ふの文有り。然れば陰陽師に問ふの後其の所を定むべし云々。頃之して資業朝臣等帰参し申して云はく、北対頗る宜しと雖も、東西北又廂等全からず、遷御するに便無かるべしてへり。又此れに次いで関白詔并に賀茂祭停止、斎宮帰京、斎院他所等を定めらる。又大外記頼隆真人を召して、此の間の雑事勘申すべきの由仰せらる。
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「奉遷」はそのまま「ホウセン」と読むか「うつしたてまつる」と読むか迷った結果、いちいち「遷し奉る」と入力するのが面倒だったので「奉遷」のままです。何度も書きますけど、これは私が自分の力だけで書き下したものなので、間違っている可能性は十分にあります。学生さんとか、そのまま書き写すのは危険ですのでやめましょう!私なんかがやってるくらいですから、自力で読んでみて下さい。
「若し然らば便無きか」と「然れば陰陽師に問ふの後」と、「然者」の読み方をちょっと変えてみました。古典文法では、未然形+「ば」は仮定条件(もし~ならば)、已然形+「ば」は確定条件(~すると、~するので)と意味合いが違っているので、「若(もし)」がある前者は仮定で、後者は前の内容を受けて「そういうことなので、そうすると」と訳すほうが良いかなと思って已然形「然れ」にしてみたのですが、まぁ「そうであれば」でも良いですかね。どっちでもいいですね、普通は「然らば」でしょうね(^^;
<現代語訳>
晴れ。内大臣藤原教通、大納言藤原頼宗、中宮大夫藤原能信、権大納言藤原長家、新大納言源師房、民部卿源道方、右衛門督藤原資平、権中納言藤原定頼、右大弁源経頼らが関白藤原頼通の疑花舎にある直廬に参会し雑事を定めた事について
一、中宮(威子)が宮中をお出になられるべき事について
人々が言った。先帝(後一条)の葬送よりも前に、吉日を選んで宮中を出られるのがよいのではないか
一、先帝を他所にお移し申し上げるべきか否かについて
あれこれ申して言うには、、宮中から発葬の礼(出棺)を行うのは非常に差し障りがあるだろう。他所にお移し申し上げた後で、そこから(?)葬礼の準備をして葬送をするのがよいのではないか、ただし日数(良い日取り?)が無ければこの限りではない。
一、お移し申し上げる場所について
人々がおっしゃるには、「一条院がよいのでは。ただし破損の状態が非常にひどい。」とのこと。もしそうであれば都合が悪いのではないか、まず一条院の状態を見させた後で決めるのがよいだろう。関白はすぐに式部大輔藤原資業と、美作守定経(この人が別当である)におっしゃって、彼らを遣わして一条院を見分させた。この間に関白が命じて言うには、「一条院がもし都合が悪かったら、法成寺はどうだろう。」ある人が言うには、「寺に遷座したという先例は無いので、都合が悪いのではないでしょうか。」ある人が言うには、「先帝は時々法成寺へ行幸なさって、叙位任官を行ったこともある場所ですから、ただ単純に他の寺と同じに考えてはいけないでしょう。お移し申し上げてもどうして差し障りがありましょうか(=差し障りありませんよ)。」また、関白が命じられて言うには、「清涼殿から見て吉方になる方角で葬所を定めるのがよいか、遷座しようとしている場所から吉方を取るのがよいか、その事が確定した後にお移し申し上げる場所を定めるのがよいのではないか。」右衛門督(資平)が申し上げたのは、「応和四年に中宮安子が主殿寮で崩御なさった後、東院にお移し申し上げました。そして、道光はただ東院から見た吉方を葬所としたのですが、後に賀茂保憲(陰陽師)が遷座の場所や葬所等は、主殿寮からの吉方を取るべきとの勘文(意見書)を差し出しました。」とのこと。すぐにその年の『村上天皇御記』を開いて見ると、道光は不覚にもそのように(=保憲の言ったとおり)行ったという文があり、とすると、陰陽師に尋ねた後に葬所を決めるのがよいだろうということになった。しばらくして資業らが帰って来て申し上げるには、「北対はとても良い状態ではあるのですが、東(東北?)対や西北対、また廂なども完全な状態ではありません。遷御するには都合が悪いでしょう」ということだ。また、これに続いて関白は詔ならびに賀茂祭の停止、斎宮(嫥子女王)の帰京、斎院(馨子内親王)が他所へ移ることなどを定められた。また、大外記清原頼隆を召して、これまで話してきた雑事について勘申(先例や吉兆、日次などを調べて申し上げる)しなさいとの由をおっしゃられた。
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「尒」をどう訳して良いものか・・・。「なんじ」で変換できたので、「爾」の異体字(「尓」と同じ)だと思うんですけど、とりあえず代名詞として訳せばいいのかなぁ?
重臣達の会議のように見えて、実はその多くが親戚のおじさんという(笑) 師房は頼通の養子(後一条と同年生まれ。祖父は村上天皇で、村上天皇の曾孫の後一条とは遠い親戚でもある)ですし、経頼は母親のいとこだし、摂関政治って家族経営なんだな~と思いますね。
資業と資平は似た名前ですが、兄弟ではありません。資業は藤原有国の子で文章博士、資平は藤原実資の養子、実父は藤原懐平。あ、そういえば右大臣この話し合いに出てませんね。定経が「別当」というのは、たぶん後一条(=先帝)の後院の別当ではないかと・・・。
後一条天皇の遺体は土御門第へ移され、という事実は知っていても、その前に一条院や法成寺が候補に挙がっていて(しかも土御門第はこの時点で出てきていないし)、面白いなと思ったのが一年前。書き起こすまで長いことかかりました。法成寺の「成」は、私の推測でしかありませんが、敦成の「成」じゃないかなぁ。ただのお寺じゃないぞと、後一条にとっては。
一条院は大内裏を出てすぐそこなので、「じゃあ今から見て来ますわ~」というのが可能だったんですね。威子が入内した当初住んだ西北対もボロボロになっていたようで・・・。もし後一条の遺体を一条院へ移していたら、威子もこの西北対に来てたんだろうか??
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